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東京高等裁判所 平成10年(う)428号 判決 1998年7月16日

主文

本件控訴を棄却する。

当審における未決勾留日数中八〇日を原判決の刑に算入する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人大塚利彦の控訴趣意書に記載されているとおりであるから、これを引用する。

第一  事実誤認の論旨について

所論は、要するに、原判決は、被告人が、当時五歳一一か月の長女A子に対し、その身体各部を素手や木製棒状のキセルあるいは電気コードで作った手製の鞭で多数回殴打する暴行を加え、胸腹部、背部から臀部に及ぶ広範な皮下出血等の傷害を負わせ、平成八年六月二一日午後五時三〇分ころ、右傷害に起因する外傷性ショックにより死亡させた旨認定したが、被告人は、A子に体罰を加えたことはあるが、死因に結びつく暴行は加えておらず、A子が死亡したのは、妻B子が同月二一日に加えた暴行に起因するのであって、原判決は事実を誤認しているというのである。

そこで検討する。

一  関係証拠によると、

<1>  本件当時、被告人は、運送会社のトラック運転手として働き、妻B子(昭和三六年一一月一日生)との間に、長男C(昭和六三年七月一一日生)、長女A子(平成二年七月二〇日生)、次男D(平成四年一一月一七日生)をもうけて、平成三年ころ、半年間程、東京へ単身働きに出たほかは、家族と一緒に暮らしていたこと、

<2>  B子は、A子の誕生後しばらくして、九月ころ、事故で背骨を骨折して入院を余儀なくされ、その後遺症もあって、以後体調が思わしくなく、また、薬の服用の副作用などで胃病を患い病院通いが必要で、家事や子供らの世話が十分できないため、A子を平成二年一二月から翌年七月ころまで被告人の姉の許に預け、また、平成五年六月上旬から七年九月下旬にかけて養護施設に預けたこと、

<3>  その後、被告人夫婦は、A子を施設から引き取ったが、聞き分けがなく、いたずらを重ねたため、手をやいたB子は、被告人に躾けを委ねることが多かったこと、

<4>  被告人は、平成八年三月ころ、自分の通勤やB子の通院の便を考えて、家族とともに原判示の八千代町平塚所在の木造平屋建の独立家屋(間取は、八畳、六畳とダイニングキチンで、八畳間を家族全員の寝室に使用していた。)に転居し、Cは地元の小学校に通学していたが、A子とDは幼稚園などに通わせず、家においていたこと、

<5>  八千代町へ転居後、被告人のA子に対する体罰は、手加減しない、激しいものとなり、六月ころからは、A子の身体を手拳、平手や電気コードで作った手製の鞭(当庁平成一〇年押第九八号の2)などで殴りつけ、足蹴にするなど、激しさの度を加え、死亡の前日である二〇日にも、A子の身体中を殴りつけたこと、

<6>  B子は、同月二一日午後六時三分ころ、下痢が続いてA子の様子がおかしい旨一一九番に緊急通報し、これを受けた救急隊員は、同日午後六時八分ころ、被告人方に到着したところ、心肺の停止、瞳孔の散大、体温低下を認めたため、午後六時一九分、A子を同町字栗山所在の病院へ搬送して医師の診断を求めたところ、同日午後五時三〇分ころ死亡したものと診断されたが、A子の頭頂部に化膿した傷があり、また、額部や首筋に青色のあざがあって、異常に痩せ細っていたため、救急隊員は、所属する下妻消防署を通じて、警察に異常を通報する措置を取ったこと、

<7>  A子の遺体は、同月二四日午後、筑波大学社会医学系法医学解剖室において、教授三沢章吾医師により解剖されたが、その結果、A子の体位は、平均的に三歳六か月児相当で、満五歳一一か月の幼児としては明らかな発育不良であり、胸腹部・陰部・背面・臀部・大腿部後面に及ぶ広範な皮下出血、一部には筋肉内出血が認められ、臀部は腫脹し、皮膚と筋肉が剥離したいわゆるデコルマン状を呈しており、特に、背中から臀部にかけての広範な皮下出血は、比較的新しく、少なくとも死亡から三日前以降に、平坦な鈍体による殴打等の外力によって生じたものと認められ、脳全体に軽度の腫脹があって、他の臓器等にはこれといった疾患が認められないことなどから、鈍体による外力が加わったことによる外傷性ショック死と判定されたこと、

以上の事実が認められ、被告人も、これらの事実については特に争わない。なお、被告人は、A子に体罰を加える際に、飾り物の木製煙管(長さ約三六センチ、同押号の1)を用いて叩いたことを否定するが、B子の原審証言に照らすと、右弁解は信用できず、前記の鞭と同様、右煙管もしばしば用いたものと認められる。

二  所論は、平成八年六月二一日にA子の様子が急変して死亡したのは、その日、被告人が仕事に出ている間に、B子が激しい折檻を加えた結果であると主張する。そして、被告人も、A子の死亡当日には、A子に暴行を加えたことはない旨、所論に沿う供述をしている。

1  本件は、関係証拠に徴し、家庭内の暴力により発生したことは、疑う余地のないところ、被告人一家が隣近所からやや離れた独立家屋で暮らしており、日頃訪れる者も割に少ないことも手伝って、客観的な目撃状況に乏しいのであるが、A子が死亡した六月二一日の、被告人とB子の行動につき検討すると、被告人は、原審及び当審において、大要、「自分は、仕事に行くため、午前四時半ころ目をさますと、A子が大便をもらしていたので、起こして表に出し、外の洗い場で汚れたマットを洗って干してから、汚れたA子をそのままにして、Cを起こし、A子が家の中に入らないよう玄関の鍵をかけさせて仕事に出かけた。仕事が一段落したので、午後三時ころ自宅へ電話すると、B子が帰宅してくれというので、午後五時ころに帰ると、A子が家の外で倒れていて、泥だらけだったので、外の洗い場で服を脱がせて体を洗ったが、肛門付近から出血しているのを認めた。六畳間にマットを敷いてA子を寝かせ、B子に救急車を呼ばせた。」と述べる。

これに対して、B子は、原審及び当審で証言して、およそ、「自分は、前の晩に、(身体の痛みを和らげるために)睡眠薬を飲んで寝たので、二一日午後二時ころ、ぐずるDに起こされるまで寝ていたから、その日の午前中の出来事については、何も分からない。Dに付いて家の外に出てみると、A子が倒れていて、泥だらけだったので、洗いなさいと言うと、よろよろ歩いたので具合が悪いことが分かった。そこで、汚れたまま家の中に入れて寝かせた、三〇分ほどして被告人から電話がかかったので、A子の様子がおかしいから、早く帰ってほしいというと、被告人は、A子が悪いんだからほっとけと言った。Cが学校から帰ってきて、A子の様子を尋ねたので、畑で腐ったメロンを食べたんだと言ったように思うが、自分としては、被告人が足を叩くなどしたのではないかと思っていた。帰宅した被告人は、家の外でA子の身体をぶら下げてホースの水で洗い、マットに寝かせた。救急車は、被告人が帰宅してから自分が呼んだ。救急車のサイレンが聞こえたのでバス通りまで行こうとしたとき、まだ被告人はA子を洗っていた。」と述べている。

このように、被告人とB子がそれぞれ供述するところでは、六月二一日にA子に対して暴行が加えられたかどうかは、明らかでない。

2  ところが、長男Cは、六月二一日の出来事につき、検察官に対する同年八月二九日付供述調書(以下、甲検面という)において、「A子が死んだ日の朝寝ていたら、A子が「やだ。やだ」と大声で言うのが聞こえた。パパがジャンケンのグーでA子の背中を一〇回位叩いた。そして、A子の手を持って窓から外に投げると、A子は外の柱にぶつかって石の上に落ちた。そこで泣いていたA子を、パパはジャンケンのパーで顔や尻を何回も叩いた。パパは家の鍵を全部かけて仕事に行った。学校へ行くとき、ママは寝ていた。ママが具合が悪かったので朝ご飯は食べなかった。A子は、地面の上でセーラームーンのタオルを掛けて寝ていた。学校から帰ってくると、A子が水道のところで裸で寝ていたので、A子に「どうしたの」と聞いたら、A子は、「ウー、ウー」と言っていた。ママに、「A子が外で寝てておかしいよ」と言うと、ママは「腐ったメロンを食べた」なんて言っていた。パパが帰ってきて、水道のホースで裸で寝ていたA子の頭から足まで水をかけた。お尻から血が出ていた。そして、パパがA子をだっこして家の中に入れ、パパがおむつをはかせて、ママと僕とDで洋服を着せました。その後、救急車が来ました。」旨述べ、当日被告人がA子に暴行を加えた位置、A子が寝ていた位置などを、示された現場写真を用いて説明しており、また、右供述の録取から三か月半経って、二回目に録取された検察官に対する同年一二月一三日付供述調書(以下、乙検面という)においても、「A子の死んだ日の朝、ぼくが一人で、テレビの前でウルトラマンのビデオを見ていると、パパがジャンケンのグーでA子の腹を一〇回くらいパンチして、お腹をサッカーのボールを蹴るようにして足の先で一回蹴り、背中を電線の鞭で五回叩くのを見た。その後、パパは、座つたままで、A子の両手を持って、頭の上に持ち上げて、窓から外に投げて落とした。A子は、外にある柱に当たって下に落ちた。A子は、落ちて横になって泣いていたら、パパがジャンケンのパーでA子のほっぺやお尻を何回も一生懸命叩いていた。その後、A子は、コアラみたいに座って柱にだっこしていた。ぼくが学校へ行くとき、A子は、自転車置き場でタオルを掛けて寝ていた。学校から帰ると、A子は、表の水道の横で寝ていた。その時、A子が裸だったかどうか、思い出すように言われたが、よくわからない。」旨述べ、更に、その五日後の一二月一八日に録取された検察官に対する供述調書(以下、丙検面という)では、「この前、お巡りさんと八千代(町)の家に行ったとき、A子が死んだ日の朝にパパがA子にしたことの中で、電気の線の鞭で叩いたことを話すのを忘れていた。A子の死んだ日の朝、パパが鞭でA子を叩いたことは間違いない。A子の背中を五回くらい、野球のボールを投げるようにして思い切り叩いた。バッシッという音がした。パパがA子を外に投げて、A子が柱に当たったことは一回しかなかった。それは、A子が死んだ日の朝です。」と述べて、警察官から事情聴取されたときには、A子の死んだ日に、被告人が鞭でA子を叩いたことを話し忘れたが、その事実は間違いないこと、自身が知る限り、被告人がA子を屋外に投げたのは、A子が死亡した朝の一回だけであることを付加している。そして、原審では、A子が死亡した日の早朝、被告人がA子の身体を屋内から外へ放り出すという暴行を加えたという点では、前掲の検面三通と相通じる内容の証言をしていることが認められる。

3  然るに、原判決は、(1)Cが原審証言の中で、A子が死亡した日に、被告人がA子に暴行を加えたと述べたことにつき、供述全体をみても誘導に乗りやすく、暴行の態様について具体的な供述がなく、犯行前後の記憶があいまいで、当日の暴行の存在自体を疑う余地があり、(2)Cの甲、乙、丙検面の内容は、右当日の暴行に関して、弾劾証拠として取り調べた同人の司法警察員に対する同年六月二一日付、七月一三日付各供述調書(両調書とも、録取に際し、Cの担任教諭E子が付き添い、立ち会っている。)と対比すると、<1>被告人の暴行の方法、態様につき、「足で蹴って外に落とした」というものから、「窓から外に投げた」というものへ変遷し、<2>ジャンケンのグーで殴った部位が、「腹部」なのか、それとも「背部」なのか動揺し、<3>時日が経過するに従って、供述内容がより詳細になり、新たな内容も加わっており、<4>Cが被告人の暴行を目撃した位置についての供述も変遷しているなどと指摘して、暗示、誘導の存在を疑うとともに、記憶の変容を懸念し、また、(3)Cは、甲検面で、「(六畳間で)被告人がA子の手を持ち外へ投げた」「自分は、八畳間の窓からこれを見ていた」旨供述しているが、右の位置から六畳間の方向を眺めることは、物理的に不可能であり、八畳間の窓のガラス戸は閉まっていたから、右供述は不合理であり、(4)Cが各検面で述べる、被告人のA子に対する殴打行為は、死亡当日以前にも、日常的に繰り返し行われており、Cもこれを目撃していたから、事件から数か月を経て後、これらの暴行態様につき死亡当日のものとそれ以前のものとを明確に区別して記憶していたかどうか疑問であると断定し、その結論として、Cの原審証言及び検面三通は、いずれも信用性に疑いがあり、「(A子死亡の当日に被告人の暴行がなかったともいえないが)被告人がした暴行の態様を確定することは困難であり、検察官主張の暴行があったと認定するには合理的疑いがある。」と判示する。

4  そこで、Cの目撃供述の信用性につき検討する。

まず、(1)原審証言は、自分自身の経験内容として事件当時には当然知っていたはずの事柄(例えば、当日登校したか否かなど)についても、記憶が減退している点があることが窺われるうえ、問に対してしばらく沈黙し、あるいは口ごもったりして、検察官の主尋問で誘導が行われた部分もあるが、これは、証言したのが事件から一年余り経過した時期であり、また、法廷の雰囲気に馴染めずに気後れした面もあったであろうから、ある程度やむを得ないことであったと考えられる。そして、Cの記銘力、質問に対する理解力、返答の表現力などは、担任教諭E子の検察官に対する供述調書(但し同意部分のみ。添付の児童指導要録写とも)や公判調書の速記録に録取された応答から察するところ、年齢(証言時、満九歳丁度で小学三年生)相応のものであって、その証言を具に閲するに、少なくとも、「A子が死亡した日の朝、お父さん(被告人)がA子の両手を掴み、窓から投げ、A子は窓の外の木(の柱)にぶつかった」という供述に関しては、証言当時の記憶に基き、自分の言葉で表現して証言したと認めることができる。

(2) 次に、甲、乙及び丙検面につき検するに、Cから事情聴取に当たった検察官跡部敏夫、甲検面の録取に付き添い、立ち会ったFの各原審証言などに徴すると、これらの検察官調書は、いずれも、事情聴取の相手が年少であること(供述録取時、満八歳、小学二年生)、供述を求める内容が両親の行状等に関する深刻な事柄に及ぶことなどを考慮して、事情の聴取に三たび回を重ね、甲検面の録取に当たっては、事件につき直接の知識のない、B子の弟Fを立ち会わせ、午後一時半過ぎから約二時間半ないし三時間をかけ、乙、丙検面の場合には、Cが前回の事情聴取で取調官に慣れていたこともあって、立会人を置かず、付き添って出頭した母B子を別室で待機させ、乙検面では午前一〇時過ぎから約一時間、丙検面では午後一時半ころから一時間ないし一時間半程度をかけ、事情聴取に注意を集中できずに、小銭を出して遊び、部屋の中を歩き回るなど、飽きやすい相手方に対して、いずれの検面とも、誘導を避け、返答に対しては一つ一つ念押しをしながら、できるだけ自発的な供述が得られるように、忍耐強い配慮をしたうえで作成したものであると認められる。

原判決は、警察段階で作成された供述調書との対比において、供述内容の変転、動揺を指摘するが、前記跡部検事の原審証言によると、予め警察段階で作成された供述調書を読んでおいた同検事も、「窓から外に投げた」旨の陳述を聞いて、投げたのではなく、蹴落としたのではないかと念を押したところ、Cは、「蹴ったのではなく、両手を持って投げた」とはっきり答えたというのである。そして、ここで注目すべきは、被告人やB子が述べた暴行は、すべて、A子の身体を素手、手製の鞭、飾り物の煙管などで殴打し、足蹴にしたというものであって、A子に対して「屋内から屋外へ蹴り落とす(あるいは手を取って放り出す)」という態様の暴行が行われたことを示す証拠は、Cの供述を措いて他に見当たらず、この点は、Cの目撃供述によって初めて明らかにされ、捜査官の知るところとなったと窺われることである。このように見てくると、Cの供述が、屋内から屋外へ「蹴り落とした」から「両手を持って投げた」と変転した理由は定かではないけれども、事情聴取に当たった警察官や検察官が、予断を抱いて、このような返答をCに示唆し、あるいは誘導したために、目撃供述が殊更に歪曲されたとは、考え難いと言わなければならない。また、原判決は、ジャンケンのグーで殴った身体の部位が、「腹部」であったか、あるいは「背部」であったか、Cの目撃供述は、警察官に述べたこととその後検察官に述べたことでは内容が違い、動揺しているなどと指摘する。しかし、本件の事実認定の上で問題なのは、A子の死亡の当日早朝に、被告人がA子に暴行を加えたか否か、もし加えたとすれば、どのような態様の暴行であったか、ということであって、その部位が、腹か、あるいは背か、ということではない。このような観点からCの供述を見ると、要するに、右は、当日の朝、被告人が「A子の(頭や手足ではなく)躯幹部を、手拳で、(一度ならず)幾度も殴打した」ことを述べていると理解すべきものであり、A子の小さな身体を力任せに幾度も殴打したとなれば、あるときは「腹」に当たり、またあるときは「背中」に当たることもあったであろう。これを以て、供述の揺れないし矛盾と解し、供述自体の信用性について負の評価を下すことは、明らかに不当というべきである。

また、原判決は、甲検面に関し、被告人が六畳間でA子の手を持ち外へ投げた様子を、Cが八畳間から目撃することはできなかったはずであるなどと指摘して、Cの目撃供述が不合理である旨判示する。関係証拠によれば、六畳間と八畳間(寝室)の間は押入で仕切られており、Cの言うところでは、八畳間のガラス戸は当時閉まっていたというのであるから、原判決が言うとおり、六畳間の中での出来事を、八畳間に居ながら目撃することはできない理屈である。しかしながら、Cの原審証言、検面三通の目撃供述と関係証拠、就中、現場の検証調書(原審検察官請求甲第七号証)などを併せ見ると、右の二部屋は、間を押入で仕切られてはいるが、両部屋の北側に隣接するダイニングキチンを通って自由に出入り可能であるところ、Cは、家族と八畳間で寝ていたが、当日早朝に目覚めてからは、六畳間備付けのテレビでウルトラマンのビデオを見るなど、両部屋の間を動き回っていたと認められるのである。したがって、Cの目撃供述は、それ自体説明不足ではあるが、その当時の行動を考慮しつつ甲検面を読めば、「自分は、六畳間で、被告人がA子の躯幹部を殴打し、南側のガラス戸の開いた所から外へ投げたのを目撃したが、(被告人の剣幕に怖れをなして、その側へ行って外のA子の様子を見ることは憚られたので、直ぐ隣りの八畳間ヘ回り)八畳間の閉じたガラス戸越しに屋外を見たら、投げ出されたA子が、コンクリートのたたきの木の柱に当たって泣いているのを目撃した」趣旨と解されるのであり、このように読み取れば、何ら不合理はない。

その他、原判決の掲げる疑問点につき逐一検討しても、六月二一日、すなわちA子が死亡した日の早朝、被告人が、A子の躯幹部を素手や前掲の鞭などで多数回にわたり殴打し、また、六畳間から南側のコンクリートたたきに、A子を投げ出すのを目撃した旨のCの供述は、A子の死亡した日の印象深い出来事の目撃供述として、十分信用するに足ると認められる。

Cの捜査官に対する供述調書、原審証言とも、目撃情景の説明として、甚だ粗く、出来事の前後関係が不明瞭な点があるなど、不完全なものであることは、その年齢、目撃から供述までの時間の経過などを考慮するとき、むしろ当然であって、そうであればこそ、検察官は、回を重ねて聴き足したのである(跡部検事の原審証言)。後に作成された供述調書ほど、より詳細になり、新たな内容が付加されたことを問題視する原判決の見方が、必ずしも当を得たものと言えないことは明らかである。年少の者の供述証拠については、暗示や誘導に乗りやすく、また、その表現等が必ずしも適切でなく、内容に不明瞭、不完全な点があることを、当然の前提とした上で、関係証拠と併せ慎重に検討し、要証事項の解明に寄与するか否かを吟味すべきものであって、形式的あるいは末節的な欠陥にとらわれることは相当ではない。Cの供述に対する原判決の評価には、与することはできない。

5  このような次第で、A子の外傷性ショック死の原因は、被告人が半ば自認する六月二〇日までの度重なる暴行に、同月二一日の激しい暴行が加わったことによると認めて誤りない。

所論は、A子の死亡の原因は、B子自身の当日の暴行にあり、また、B子がそれまでの被告人の折檻を制止しなかったことにもよるのに、被告人だけに責任を帰するのは不当であって、原審は審理を尽くさず、延いては事実の誤認を招いたと主張する。この点、Cの検面など関係証拠に照らすと、B子も、時に、A子に対して体罰を加えることがあったことが窺われる。しかし、その回数、程度は被告人のそれに比すべくもないのであって、特に、死亡当日に、A子に対して暴行を加えた証跡は窺われず、B子の暴行がA子の死因に寄与したとは認め難い。また、B子が病弱で、母親としてA子を含む三人の子供たちの日常の世話が行き届かない状況にあったことを考えると、父親である被告人の暴行を知りながら放置して、A子を死亡させたとまでは認め難い。所論は容れることができず、論旨は理由がない。

第二  量刑不当の論旨について

所論は、原判決の量刑は重すぎて不当であると主張する。

そこで検討すると、被告人が貨物自動車の運転手としてきつい労働に従事しながら、病弱な妻と三人の幼い子を抱え、生活に疲れて、精神的に不安定な状態に陥り、いらいらが高じていたであろうことは理解でき、本件が、遣り場のない不満の爆発であったとすれば、その心情は同情に価する。しかし、たとえそのような心理状況にあったとしても、これを頑是ない無抵抗の幼児にぶつけるのは許されることではない。相当長い間にわたり、厳しい折檻を繰り返し加えた犯行態様は残忍であり、わけもわからぬまま、父親から加えられる体罰の苦痛を耐え忍んだ末、命を奪われたA子は、まことに哀れであり、痛ましい限りである。

このように見てくると、被告人の罪責は重いのであって、交通事犯による罰金前科が二回あるほかには、これまで社会的に非難されるべき点は特段見当たらず、生活維持のために、一家の支柱として被告人なりの努力を重ねてきたこと、きつい体罰を加えたことについては反省していることなど、被告人のために酌むべき事情に加え、平成九年一月、C及びDをB子に渡して協議離婚し、家庭を失うに至ったことなどを考慮しても、被告人を懲役四年に処した原判決の量刑が重過ぎて不当であるとは認められない。所論は、B子の側に、子供の躾け方、被告人に対する接し方など、母親として、また妻として、日頃から至らない点が多々あったことが、本件の発生に深く関わっており、このような点を、被告人のために有利に勘酌すべきであると主張するのであるが、確かに、B子が被告人の厳しい折檻を制止し、児童相談所に相談するなど、適切な措置がとれていれば、このような痛ましい事態を、あるいは防ぎ得たかもしれないのであって、同女の対応は適切とは言えず、遺憾な面があったことは否めない。しかし、同女の体調が、長期にわたり、はかばかしくなかったことなども考慮すると、所論指摘の点を、被告人の量刑面において考慮すべきであるとも言い難い。

論旨は理由がない。

よって、本件控訴は理由がないから刑訴法三九六条によりこれを棄却し、刑法二一条を適用して当審における未決勾留日数中八〇日を原判決の刑に算入し、当審における訴訟費用は刑訴法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 高木俊夫 裁判官 久保真人 裁判官 岡村 稔)

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